こたつウサギの寝言

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「人間力」という言葉に対する違和感について

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どうも、ダービーです。

 

皆さんは、「人間力」という言葉を聞いたことがありますか?

 

そうです。自己啓発などで使われがちな、あの人間力です。

 

何を隠そう、僕はこの言葉に違和感しか感じません。なんだかムズ痒くて仕方ないのです。

 

今回は、僕がこの「人間力」という言葉のどこが・どのように違和感を感じるのかを考えていきたいと思います。

 

※以下、僕個人の意見です

 

人間力とは 

 

社会を構成し運営するとともに、自立した一人の人間として力強く生きていくための総合的な力    

人間力 - Wikipedia

 

 このように記されてはいますが、明確な定義はありません。

 

内閣府に置かれた人間力戦略研究会が出した人間力戦略研究会報告書:若者に夢と目標を抱かせ、意欲を高める:~信頼と連携の社会システム~』(2003)によると、「このように定義したいが、これには多分の曖昧さが含まれており、確立された定義はない」としています。

 

つまり、人間力とはこういうことだ!とハッキリ決まっているわけではないということです。あくまで、どんな資質・能力をを育てることが「教育」なのかというイメージを広げることで、最終的に教育環境を構築することに意義があるんだそう。

 

また、この報告書の中では、上の定義(仮)を整理したモデルも示されています。それが、以下の3つです。

 

①知的能力

基礎学力、専門知識・ノウハウ、論理的思考力、創造力など

 

②対人関係能力

コミュニケーションスキル、リーダーシップ、公共心、規範意識など

 

③自己制御能力

上記2つに対する意欲、忍耐力、自分らしい生き方や成功を追求する力

 

 

この3つが構成要素であるとしています。

 

人間力に対する違和感

 

ここからは、僕がなぜこの言葉に違和感とムズ痒さを感じるのかについて説明していきます。

 

曖昧がゆえに解釈が自由

 

すでに述べたように、これといった定義が存在しません。

 

つまり、人によって・企業によって人間力というものに対する解釈が様々ということです。そして、そこにはそれぞれの意図が含まれることもあり得ます。「うちの会社はいちいち突っかかってこない素直で和を乱さない人材が欲しいんだ!」と考えれば、人間力=協調性を前面に押し出した研修を用意するかもしれないということです。

 

また、ある研修では「人間力とは主体性と対人スキルだ!」と言い、また他のセミナーでは「人間力とは信頼と協調性、礼儀正しさですよー!」ということだって起きやすくなります。だって、明確な定義がないんだから。

 

となれば、人間力を「学ぶ」ということの不思議さも理解出来るはずです。

 

科学や数学などは、学問として確立されているため、基本的な内容は誰が教えても同じです。が、人間力に関しては定義が曖昧なため、教える側の潜在的な価値観・判断基準で重視するもの(教えること)が変わってきます。

 

これは、学ぶ側にも同じことが言えます。学ぶ側が潜在的に大事だと思っている要素を「重要ですよ」と言ってくれる講師を、自分の裁量で選んで学ぶということが起きる可能性があります。これは、確立された学問では起こりません。誰に教わっても、基本的に同じ情報が得られるからです。強いて言うなら、教え方の違いくらいでしょう。

 

このように、曖昧であることで本当に大事なことは何なのかが、結局人によって異なってきます。これではいくら「人間力が大事ですよ」と言われたって、説得力がないように感じてなりません。僕は、ね。

 

人間力という一言で表現することの危険性

 

人間力という言葉には、色んな意味が含まれているのはお分かり頂けたでしょう。

 

主体性や学習意欲、コミュニケーション能力、信頼、自信、ポジティブ、礼儀、リーダーシップ、誠実さ、傾聴力‥‥。挙げるとキリがありません。

 

これを踏まえた上で、「あの人は人間力がある」「彼は人間力がない」などという言葉を聞いて、皆さんはどのように感じますか?僕は、人間力という一言で片付けることに違和感しか感じません。

 

確かにその人は魅力的な人かもしれません。しかし、それは人間力があるからなどというザックリした理由ではありません。誠実で信頼できるからかもしれませんし、人の話によく耳を傾けるからかもしれません。

 

なぜ人として魅力があるのかを考えた時、人間力という一言で判断すると、細かい部分に注目出来なくなります。それ以上深く考えなくなり、一種の思考停止状態に陥ります。そして、より細かい要素に気づかなければ、その人からどういう所を学べばいいのかが分からなくなります。

 

こうして行き着く先は、その人をまるごと尊敬しお手本にする、です。「◯◯さんみたいになりたい!」発言がその証拠です。本当にすべきなのは、この人のこういう所、あの人のああいう所というように各要素を尊敬し、取り入れることだと思います。丸パクりすることではありません。

 

こういった理由から、人間力がある・ないという表現に疑問を抱いてしまうのです。

 

理想型を押しつけられてる感

 

みんな人間力を鍛えよう!というそのスタイル、ハッキリ言って理想の人物像を求められてる気がしてなりません。

 

確かに知識や思考力、創造力などは必要とも言えます。が、コミュニケーション能力やリーダーシップは本当に全員に必要でしょうか?

 

コミュニケーション能力に難があるのなら、そこは他の人に任せて自分の得意な分野に力を注いだ方が良いようにも思えます。また、リーダーシップはついていく人があってのリーダーです。全員が前に出るその姿勢、積極性と主体性はあっていいかもしれませんが、中には口数が少ないけどいざという時にベストな提案をする縁の下の力持ちも必要です。

 

結局人それぞれ得意不得意があるので、全てにおいて70点を出すよりも、どこか欠けているけど絶対的な100点要素を1つ持っていることの方が、チームとしてはありがたいのではないでしょうか。(個人的な感想としては)

 

だからこそ、社会人は皆こうあるべき!という「べき」論は避けなければならないと思います。

 

ついでに言うと、「皆こうあるべき」「これを目指そう!」って考え方って多様性お断り感半端じゃないですよね。あれ?確か人間力の中には多様性を受容するというのもあったような‥‥ま、いっか。

 

まとめ

 

人間力向上のターゲットは主に若者らしいです。人間力低下が懸念されているとかで。

 

でも、考えてみて下さい。世の中には電車内で平気で席をぶんどるご年配の方もいますし、あおり運転をして人を殴る人だっています。これらは人間力で言うところの公共心や規範意識が足りていないのは明らかです。別に若者に限った話ではなくないですか?

 

もしそれでも若者の方が人間力が低いと言い張るのならば、まずは人間力の定義をしっかり決めてほしいものです。でなきゃ、どちらがどの程度かなんて感覚でしかありませんから。

 

以上、思った事をそのまま書き殴った僕のストレス発散記事でした。

 

最後まで見て頂きありがとうございました。

 

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