【虚礼】お土産の授受は当たり前ではありません。
どうも、いつでも外出自粛中のダービーです。
突然ですが、あなたは旅行・出張に行った際、仲間や友人にお土産を買っていきますか? 誰かが遠出した時にも、お土産を期待しますか?
僕個人としては、ハッキリ言って、要りませんしあげません。
今回は、誰もがあって当然と思い込みがちなお土産の授受は当たり前じゃないよというテーマを考えていきます。
お土産は "虚礼" にすぎない
まず大前提として、お土産をあげる行為は虚礼にすぎません。
「虚礼」とは、形式だけの気持ちが入っていない礼儀のことを言います。要は、表面上の取り繕いということです。
これには、「いや、真心入ってるし!」という反論もあることでしょう。
確かに、親しい友人などにあげるお土産は、形式ではなく本人の厚意によるものです。
ここでいう「お土産」とは、職場・なんらかの組織内における「買わなきゃ」という強迫観念に基づくものに限定して展開していきます。ご注意を。
虚礼としての問題点
①終わりがない
今や、年賀状・バレンタイン・お歳暮・お中元などが虚礼だと指摘されています。これらに共通するのが、
もらった側があげる側にまわる可能性が高いということです。
もらったから自分もお返しをするというサイクルが出来上っているので、エンドレスで続くいわゆる "当たり前" として完成してしまうわけです。
もらったからあげる、あげたからもらえると思い込む、という連鎖により、構造上良くも悪くも定着しやすいものになっています。
②あげたからもらえて当然!という考え
もちろん全員ではありませんが、どこかに出かけたという情報を聞きつけては「お土産ないの?」と笑顔で聞いてくる人種が一定数います。
しかも、そういう人に限って毎回しっかりお土産を買ってくるんですよね。
さらなる上位互換は、行く前に「お土産よろしく!」と気安く言ってくる人。まさに、先手を打たれた感満載の一言。
釘を刺しておきますが、あげたからもらえて当然という考えは、都合の良い勝手な解釈です。頭の中お花畑とまでは言いませんが、タンポポの咲いた原っぱくらいのファンタジーさは持っています。
③周りの目
①を経て、やがて慣習となったお土産購入は、もはやその組織内では当たり前の存在に。
そうなった時に気になるのは、買ってこなかった時の周りの目。
特に、周りの目が気になって仕方がないタイプの人の場合、この苦痛に耐えられるはずもなく、強迫観念の下に内心では嫌でも買ってしまいます。
気にしすぎな人というのは、実際に周りがどう思っているのかという事実ではなく、「こう思っているのではないか」という勝手なネガティブ思考で行動する傾向にあるように感じます。
よって、実際に周りが「当然」と思っているかどうかに関わらず、気になるものは気になるのです。これでは、余計に慣習として浸透してしまうことでしょう。
お土産に対する僕の対応
こんな記事を書いている時点で分かる通り、僕はお土産を買うのが嫌いです。
お金がかかる上に大した効力があるわけでもありません。おまけに移動の際荷物が増えるだけ。
よって、僕はお土産というものを「個人にしか渡さない」というスタイルを貫いています。しかも、ごく稀(だいたい買わないことが多いです)。
考えすぎる性格なので、全体に向けるとなると、色んなことを考えて選ぶ必要が出てきます。
ですから、大勢の前で「◯◯に行く」などと公言することを避け、理想は誰にも買わないこととしています。
まとめ
今回は、お土産という厄介な虚礼について考え持論を展開しました。
が、これはあくまで僕個人の意見です。お土産自体もらうと嬉しいものですし、あげたい人の気持ちも分かります。
ただ、「なんとなく買っていった方がいいかな?」くらいの感情で買わなくてもいいのではないか、と感じます。
中には無理して買っている人もいることでしょうし、この際、暗黙のルールのようになってしまっていることについて考え直してみるのもいいのではないでしょうか?
以上、そもそもあまり外出しないダービーでした(お土産買う機会自体少ないわ)。