「あいさつ運動」を振り返る
どうも、ダービーです。
今回は、小学校などで行われているあいさつ運動について、僕自身の体験などから振り返ってみたいと思います。
あいさつ運動とは
コミュニケーションの活性化、豊かな人間関係を構築するために、率先して相手にあいさつをする運動のことだそうです。
小学校では児童が校門や玄関近くに立ち、登校する人全員に元気よくあいさつすることを指します。また、中には会社なんかでも、当番社員が朝出勤してくる人1人1人にあいさつしているというところもあるみたいです。
あいさつ運動が嫌い
何を隠そう、この僕はあいさつ運動が大嫌いでした。いえ、現在進行形で嫌いです。
ただ、あいさつ自体は嫌いではありませんし、必要なものだと思います。
最初に嫌悪感を抱いたのは、小学生のときです。以下、全て僕が小学生だったときに感じていたことになります。では、どうぞ。
あいさつは強制されるものではない
僕の小学校では、一週間ごとにあいさつ運動の当番が決まっていました。そして、当番の児童はいつもより早めに登校し、あいさつ運動のため玄関近くに立ちます。そりゃ、そうですよね。登校してくる人にあいさつするのが目的なんですから。登校時間ギリギリに行っても意味ありません。
要は、あいさつ運動というものを先生から強制されていたわけです。僕はこれが不思議でたまりませんでした。
だって、あいさつって誰かに「やれ」と言われてやるものではなく、自発的にするものですよね。誰かに会ったときに自然と出てくる言葉であるはずです。それを、第三者に「やれ」と言われる筋合はないと子どもながらに思っていました。
さらに言うと、その言葉には気持ちがこもってないと意味ないと思っています。
強制されると、中には嫌々やっている僕みたいな尖った人が必ず居ます。すると、その人がいくら「おはようございます」と言ったところで言われた側はちっとも嬉しくありません。心の底から「おはよう」だなんて思ってないから。やらされてる感だけが残ります。
あいさつしたことない人なんて居ない
少し偏った考えかもしれませんが、あいさつしたことない人間なんていないと思います。つまり、どんなにあいさつ運動を嫌っていた人でも、仲の良い友達には自然とあいさつしているということです。
社会人になって会社勤めになったりすると、同じ会社の人間という意味であいさつは誰に対しても必要になると思います。同じ場所で働くという点で関わりがゼロではないからです。
しかし、小学校なんてしょせん同じ地域に住んでいて年齢が近い人の集まりです。そこまで深い関係なんてありません。なんなら、一度も話したことない・名前も知らない人などうじゃうじゃ居ます(田舎は除く)。コミュニケーションも何もありません。
そんな関係の薄い人1人1人にまで、あいさつすることを強制される必要はない、というのが僕個人の考えです。(非常に歪んでますね)
そこまでしなくても、1人1人にとって大事なコミュニティ内できちんとあいさつをし、円滑にコミュニケーションが取れれば良いのではないかと考えます。
大きな声で元気よく!は言ってる側のエゴ
よく先生からは「大きな声で元気よくあいさつをしよう!」と言われましたが、正直「は?」と思っていました。
あいさつは何のために・誰のためにするのか。それを考えれば考えるほど、必ずしも元気よくある必要はないのではないかと思ってしまいます。
あいさつは、円滑なコミュニケーション・より良い人間関係の構築のために大事だということは周知の事実です。そして、自分のためではなく、相手のためにするのがあいさつであると思います。
となれば、大きな声である必要はありません。中には、「朝からうるさいなぁ」と感じる人もいるはずです。「大きくなくていいからマイルドに言ってくれ」と思う人もいるでしょう。もちろん、「大きな声で元気よく言って欲しい」という人がいるのも理解できます。
1人1人感じ方は様々であるから、一様に「大きな声で」というのは間違いである、と僕は考えます。それなのに、「大きな声で元気よく」が正義だ!これが正しいのだ!というのは完全に言ってる側の自己満足・快楽に過ぎません。
まとめ
これは性格がひねくれている僕個人の意見に過ぎません。ですから、これが絶対に正しいとは思いません。
ただ一つ言えるのは、あいさつとは相手へのプレゼントです。ちょっと綺麗事みたいで自分で言って鳥肌が立ちますが、本心です。
プレゼントというのは、相手のためにするものです。相手がそれを受け取ってどう感じるかに重きをおくべきであり、自分がどれだけ満足がいったか・周りから評価されるかは気にするべきものではありません。
あなたは「あいさつ運動」また「あいさつ」そのものについてどう考えますか?